駒ヶ嶺さんの詩集、ヤリタ姐さんの論集。
コマガネトモオさん(駒ヶ嶺朋乎さん)から詩集『背丈ほどあるワレモコウ』(思潮社)をいただきました。
『鐘楼』『現代詩手帖』『はちょう』の既発表作品を中心に一冊にまとめたものです。
これまで、小笠原鳥類とセットで論じられることが多くて、しかも鳥類の蔭に隠れがちに扱われることが多かったひとですが、言葉でフルックス・ブラザーズな楽器破壊衝動なんぞとは、まったくちがうなあ。
「新しい詩人」シリーズ男子編は(私個人は)あんまり感心しなかったけど、駒ヶ嶺さんのは、なかなか読ませます。
いつも「鐘楼」の紙面を額縁のように彩っている、アール・ヌーヴォー調のガーリッシュ唐草のなかに飾られている(あるいは封じ込められているともいえる)作品が、わくをとりはらわれて、はばたきます。
これだけでもずいぶん印象が違います。
あふれ出るようにエネルギッシュな女性性を封じ込めて植物にもありえないほどの性なき存在にならないとある意味やっていけないところのある、この国のアカデミズムや「働く女性」の世界にふみとどまって働こうとする「女子」の、日々のフラヌールの実感も伝わります。ワレモコウ、ってのも枯れているなあ。自分ならなんの植物にするかなあ。
しかし、駒ヶ嶺さんついに筆名をジェンダー不詳カタカナ名前にしたのか…。
ぎりぎりで男名前でないのだな…
年をとっても「コマガネトモオ」で通せるかどうか。
ムイシュキン公爵大増殖の「最密充填むい」が妙に印象に残りました。
大きいむい、中くらいのむい、小さいむい、ってラヴリーじゃありませんか奥さん。
彼女(っていわれるのイヤだろうけど)の作品には、ジェンダー・コンシャスな批評は必要だと思います。ジェンダーとかそういう切り口で扱われるのは、本人はいやかもしれないけれど。
ポップな正義感に貫かれたジェンダー批評といえば、やはりこの人。ヤリタミサコさんから批評集をいただきました(全2冊、いずれも水声社)。
『詩を呼吸する--現代詩・フルクサス・アヴァンギャルド』には、ネットや朗読や紙媒体で書いている若い詩人たちについての、いまはなき「さがな」や、いんあうと第1期に発表されたエッセイもいろいろ再録されています。2冊目の『ビートとアートとエトセトラ』には、「分裂機械」などに収録されたビート詩論も再録されています。ビート詩の熱気みなぎる正義感や、遊び心を巧みに捕まえる文章が味わい深いです。詩に対する愛があふれています。雑食性の強さを感じさせます。意見の相違を受け止めあって、ジャンルを活性化させるには、やっぱり愛も必要ですね。
ともかく、やっぱり紙媒体にまとめるのは、良いです。手に触れてまとまって読めると安心できます。
フルクサスやビートの手法はいまはもう前衛ではないし、そのまままねしてもしょうがないと(私個人は)思いますが、いまの世の中では、セラピーとして活用できるんじゃないか、なんてことをしばし考えさせられました。まとわりつく意味から逃げ出したい、感じてもいいもの、怒ってもいいもの、叫んでもいいものには、ちゃんとレスポンスをしたい、身体性を回復したい、というとあまりにべたなのですが、それって、いまどきの詩にとっては実は切実な問題ではないかな…どんな、はっとするような表現を見いだしてゆくか、それが問題ではあるのですが。
…詩集の原稿は全部できているから、はやく、晴れて詩集を刊行できるご身分になりたいな、やっぱり自分の詩集も論考も出版しなくちゃいけない…と切実に思いました。目の前の大きな仕事を、まずは片付けます。