田中宏輔『The Wasteless Land. IV』
田中宏輔『The Wasteless Land. IV』(書肆山田、2009年)
田中宏輔さんからいただきました。ありがとうございます。
しばらくこの記事を先頭においておきます。
(この下に新しい記事が続きますのでスクロールしてお読みください。)
一読、面白いです。
いくらオープン・ゲイの詩人の作品といえども
ジェンダー&セクシュアリティ視点からこの詩集が論じられることは
本人にとってはもしかして不本意かも知れない、と思いつつご紹介させていただきます。
日本のゲイ・ポエトリーに新たな一頁を開く一冊ではないかと思います。
まず題名にご注目いただきたいのであります。
「捨てるものなしの国」。
読んでいて先頃思わぬ病気で若死にしたゲイ友が常々語っていた話を思い出しました。
「二丁目に捨てるものなし」。
ゲイの方々にもいろいろな方々がいらっしゃいまして
お相手の趣味も実に多種多様
好きなものは好き、嫌いなものは嫌い、とはっきりはしていても
どんなタイプのゲイの人にも必ず「タイプだ」と好いてくれる人がいる
誰もが拾い拾われる可能性をもっている
その様子を評して
「二丁目に捨てるものなし」
と言うのだそうです。
この友人は頭を坊主にして
「おれは超男性になりたい」と公言しては
フットライトにスポットライトにミラーボールがぎらぎらする舞台に踊るように
自らのセクシュアリティと生き方を毎日高らかに宣言しては
日常のなかに生の昂揚をつねに求めていた人でした。
そんな彼に「この臆面もないヘテロ女め!」と怒られては
何をこのやろう、
夜遊びもせず男遊びもせず
お行儀よくふるまっているヘテロ女だからって
エロスがわからないと思うなよ
とムカーッとしたこともありましたが
しかし彼の存在感はやはりいまも強烈です。
「好きなタイプの若い素敵な白人青年になかなか巡り会えない」と
ぼやきつつ愛を求めつつ彼が遺していった「捨てるものなし」の教えは
鮮やかに記憶に残っております。
私はこの「捨てるものなし」の話をこの友人から初めてきいたとき、ほんとうに驚きました。
日本人ヘテロ女性に課せられることでおなじみの「捨てるものだらけ」の価値観にたいへんに悩まされていたからです。
いいなー捨てるものなしかー。
ヘテロさんは「捨てるものだらけ」に苦しまされているよ。
と思ったものでした。
これについてはまた書く機会もあると思いますが、実に憤懣やるかたないものがありました。乙女な部分も持ち合わせつつ、からっと強くたくましく美しく賢くエロスの息吹も兼ね備えて生きたい、と思うとなにかと日本では艱難辛苦が多いと当時非常に痛感するところがいろいろありました。誰にでも発情するミステリアスな誘惑者か、タブララサな娘っ子か、さもなくば性なき戦闘美少女観音(あるいは母なる聖性)かどれかの役割を選べって迫られてもまったく実感にそぐわないったらない。まったく困った青春時代でした。
さて、諸外国の事情などを見ましても、その後の自分の人生から考えましても、ほんとうはヘテロの世界も「捨てるものなし」の筈なのですが、縛りが多い分、それに気づくまでが大変なのではないかと観察しています。
まずはそれぞれの人がそれまで縛られてきた性愛観や恋愛観や人間観を超えて自由に率直にインディペンデントな魂をもって生きる工夫と努力をしなければならないわけで、その旅路は実にたーいへんなものがあります。
ですから、ゲイの書き手の方々が(たとえ現実の世界では「拾ってほしい」タイプの人の美意識と自分の美意識と持ち味に合わせて周到に外見や行動パターンを磨いてゆくであろうことにはゲイもヘテロもかわりはないにしても)率直に「捨てるものなし」の世界を語ってくださるのは非常に有り難いことだと思わずにはいられません。そこに込められたなにかがゲイの人に特有ななにかではなくて、人類共通の何かである、ということが、別のジェンダーやセクシュアリティをもっている人の立場から語られなければならない、語る責任がある、と私は思っています。日本ではそのあたりの消息があまりにも語られなさすぎです。
宏輔さんのThe Wasteless Land.のシリーズの題名は
日本語訳すれば「捨てるものなしの国」
ということになります。
もちろん日本語の戦後詩の出発点である荒地派の面々が戦乱の後の日本語詩の模倣すべき規範として掲げたT.S.エリオットの『荒地(The Waste Land)』へのアイロニーでもあるでしょう。
しかし、戦乱の後の荒廃の時代を民俗学的なイマジネーションを織り交ぜて歌った『荒地』とは『捨てるものなしの国』の世界は大いに異なっております。
『荒地』同様にやはり饒舌体ではありますが、饒舌の中にあふれるのは荒廃の心地ではないように感じられるのです。
宏輔さんは京都生まれの京都育ち、現在も京都にお住まいと仄聞しております。
太平洋戦争で空襲に遭わなかった京都では「さきの戦争」といえば応仁の乱をさすのだ、ときいたこともあります。
いくらグローバリゼーションの大衆消費社会の世の中とはいえ、そのグローバリゼーションすら一目置く千年の古都、容易に捨てられぬ歴史が層をなして降り積もりいまも日常としてそこにある都市に住まう人にとってはむしろ「世の中に捨てるものなどなし」の実感は東京の人間には想像もできないくらい強いでしょう。
とはいえ、具体的な土地の名や有職故実を外して京都の「世の中に捨てるものなどなし」を作品化して語ることは実は意外に難しく、また技術も見識も要るのではないかとも思います。
その点で、宏輔さんがこれまで手がけてきた先鋭な美意識で選択された東西の古典の引用からなる抱腹絶倒のコラージュによる批評詩は
詩における「世の中に捨てるものなどなし」の実践
ということもできます。
引用された部分は引用句として有名な語句ばかりではありません。たった一文字だったり、別にその特定の作品ではなくてもいいような語句だったりすることもしばしばですが、そこにしかるべき出典が麗々しくつくと思わず笑えてしまいます。
しかし、今度は日常詩です。
非常に平明なことばで日常のなかに浮かぶよしなしごとが
そこはかとなく書き付けられております。
これを詩法の後退、と懸念するお方もおられたと仄聞します。
しかしです。やはり現代日本のゲイ・ポエトリーの歴史というものを考えてみると
この詩集の確信犯的な革新性が明らかになるのではないでしょうか。
現代日本のゲイ・ポエトリーには、(少数の例外を除いて)男性主導型異性愛に立脚してエロスの表現の型を作ってきた日本のヘテロの男の詩人の書きぶりに対する猛烈な反撥に支えられた(ヘテロ男性の詩人どもなどとても追いつかないような)「詩語にまみれ」て頭脳美肉体美超男性的もののふ的官能美づくしの人工美の極致の世界を目指す傾向があったであろう
と観察しております。
宏輔さんの今回の詩集は、そのようなおもっくるしいゲイ・ポエトリーのことさらに詩人ぶった身振りを笑い飛ばして余りある日常感覚とユーモアに貫かれています。
京都に住む書き手が人工美の極致をめざして有職故実や衆道の意匠をエキゾティックにまとってみせればそれまでの日本の現代ゲイ・ポエトリーの「王道」を行くことになったでしょう。しかし、宏輔さんはその道よりも、現代の日本のアクティヴなオープン・ゲイの人が接している「捨てるものなし」の境地を率直に語ることを選んでいます。
ミクシのトップページのポートレイト写真で拝見する限りでは、宏輔さんはたくましい坊主頭の偉丈夫な兄貴でおいでのようです。ゲイの世界では「熊系」と言うのでしょうか。その雄々しくありたい兄貴のときに傷つきやすく心優しき恋情と日常の哀歓とそのはざまから立ち昇るなにものかが平明な表現で書かれております。
テレヴィジョンの画面をきょうも賑々しく騒がせるその辺のおばはん以上にあけすけで口さがない中年のおばはんじみたおねえMANSや、心身のボディビルに励んで人造フリークスじみた文体や肉体を作り上げて、疲れたヘテロのおじさんおにいさんを足下に見下ろして睥睨するミシマくんやナカイくんやその超マッチョで愉快な仲間達のような御仁のみが「ゲイ」ではございません。
ましてや今様のBLの世界など、似て非なるもの。
そのこともよく気づかせてくれる詩集です。
もっとも
日本語で女が語るならば型にはまったお台所か性愛さもなくば家庭の女の役割をときに刺激的に共感的にうたいあげよ
(なぜなら女は娼婦か聖女か母か姉妹か娘だから)
と明に暗に要請される抑圧に対して日々密やかな抵抗を試みるヘテロの女の書き手の立場からすれば
この詩集であまりにもまっすぐに語られる日常がまぶしくてしかたがなくて
くっそーちくしょー
ゲイはいいよなー
正直に自分の生活を語っても
ありふれていない世界を語った作品になるんだもんなー
と思ったりもするのですが
本来詩人である人は何をどのような形で語っても詩になるから
別に日常を率直に語ってもいいじゃないか
とも感じさせられます。
日常にも捨てるところなどないのであります。
巻頭の「詩人キラー」の詩からつかみはばっちりです。
詩歌などをやっておりまして多少名前が知られるようになりますと
いろいろな実作者から同人誌や詩集歌集が贈られてくるようになります。
あまり相性のよくない詩が届くことも珍しくはありません。
宏輔さんはそれを招かれざる詩人の訪問にたとえて
気にくわない気持ち悪い詩人をまるごと退治できる
「詩人キラー」の広告を妄想するのであります。
誰もが一度は考えるけれども口には出して言わない真実をつく
これも詩人の仕事でしょう。
このような率直さが彼の作品の美質の一つであると思います。
「詩人キラー」の詩はミクシ日記の初出のときからそりゃもう抱腹絶倒でしたが、
活字になるとやはり感慨深いものがあります。
しかし、行間から立ちあがる過去の思い人の切ない面影など、セクシュアリティを超えてしみじみとさせるなにものかもたしかにここには盛られております。
「捨てるものなしの国」も人の子の国、拾ってほしい人に拾われず、拾いたいものがころがってはおらず、需要と供給が必ずしも一致するわけではなく、しかも通じ合えない、理解し合えない人間の悲しみも確かに存在しておるのです。怒濤のように存在があふれだす後半の長大な断片集(?)「熊のフリー・ハグ」はそう考えて読むと、詩と人間に対するあふれてやまない愛情がもしかすると受け手には必ずしも嬉しくないかも知れないむくつけきおっさんのフリー・ハグのように映るかも知れない、との含意が充ち満ちているようにも感じられて哀切です。世紀病の影の暗示はまったく感じられませんが、それはむしろ人間に対する愛情あふれる登場人物とセイファー・セックスのつながりを想起させるなにかでもあります。
わたくしごとき才女気取りの女の書き手に賢しげに分析されるのは
おそらく宏輔さんにとってはさぶいぼが立つほどお厭であろうと常々拝察しております。
ですから、あれこれぶった切るようなことはいたしません。
ともかく
頭の回転の速いこどもが砂場の砂をありったけ使いながらどんどん面白い話を繰り広げてゆくようなそのおかしさや切なさを存分に味わえる
それは保証いたします。
身近にそれなりにアクティブなオープン・ゲイの知り合いがいる大都市圏の日本語話者の読者にとっては
エリオット方面よりもむしろ
「捨てるものなしの国」
といえばぴんと来るかも知れないな、と思います。
謎で謎でしかたがないけれどやはり近くにいるからにはちゃんと立場を尊重して接したいと日頃読者の皆様がお感じの、身近のゲイ友につながる世界を知るためにも、「捨てるものなし」の境地を存分に味わっていただくためにも、個人的には引用詩批評詩満載の
The Wasteless Land I+II+III
とセットで読むことをおすすめします。
しかるべき訳者を得てニューヨークあたりで読まれると受けるのではないかという気もしますが如何でしょうか。
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まだThe Wasteless Land.最新刊へのリンクは来ていないようです。
『荒地』の英語版はこちら。
The Waste Land: Authoritative Text, Contexts, Criticism (Norton Critical Editions)
The Waste Land and Other Poems (Penguin Classics)
ワッキー先生訳の『荒地』はこちら。
西脇順三郎コレクション〈第3巻〉翻訳詩集―ヂオイス詩集 荒地/四つの四重奏曲(エリオット)・詩集(マラルメ)
