田中宏輔『The Wasteless Land. IV』

田中宏輔『The Wasteless Land. IV』(書肆山田、2009年)

田中宏輔さんからいただきました。ありがとうございます。
しばらくこの記事を先頭においておきます。
(この下に新しい記事が続きますのでスクロールしてお読みください。)

一読、面白いです。
いくらオープン・ゲイの詩人の作品といえども
ジェンダー&セクシュアリティ視点からこの詩集が論じられることは
本人にとってはもしかして不本意かも知れない、と思いつつご紹介させていただきます。

日本のゲイ・ポエトリーに新たな一頁を開く一冊ではないかと思います。

まず題名にご注目いただきたいのであります。
「捨てるものなしの国」。
読んでいて先頃思わぬ病気で若死にしたゲイ友が常々語っていた話を思い出しました。
「二丁目に捨てるものなし」。
ゲイの方々にもいろいろな方々がいらっしゃいまして
お相手の趣味も実に多種多様
好きなものは好き、嫌いなものは嫌い、とはっきりはしていても
どんなタイプのゲイの人にも必ず「タイプだ」と好いてくれる人がいる
誰もが拾い拾われる可能性をもっている
その様子を評して
「二丁目に捨てるものなし」
と言うのだそうです。
この友人は頭を坊主にして
「おれは超男性になりたい」と公言しては
フットライトにスポットライトにミラーボールがぎらぎらする舞台に踊るように
自らのセクシュアリティと生き方を毎日高らかに宣言しては
日常のなかに生の昂揚をつねに求めていた人でした。
そんな彼に「この臆面もないヘテロ女め!」と怒られては
何をこのやろう、
夜遊びもせず男遊びもせず
お行儀よくふるまっているヘテロ女だからって
エロスがわからないと思うなよ
とムカーッとしたこともありましたが
しかし彼の存在感はやはりいまも強烈です。
「好きなタイプの若い素敵な白人青年になかなか巡り会えない」と
ぼやきつつ愛を求めつつ彼が遺していった「捨てるものなし」の教えは
鮮やかに記憶に残っております。


私はこの「捨てるものなし」の話をこの友人から初めてきいたとき、ほんとうに驚きました。
日本人ヘテロ女性に課せられることでおなじみの「捨てるものだらけ」の価値観にたいへんに悩まされていたからです。
いいなー捨てるものなしかー。
ヘテロさんは「捨てるものだらけ」に苦しまされているよ。
と思ったものでした。
これについてはまた書く機会もあると思いますが、実に憤懣やるかたないものがありました。乙女な部分も持ち合わせつつ、からっと強くたくましく美しく賢くエロスの息吹も兼ね備えて生きたい、と思うとなにかと日本では艱難辛苦が多いと当時非常に痛感するところがいろいろありました。誰にでも発情するミステリアスな誘惑者か、タブララサな娘っ子か、さもなくば性なき戦闘美少女観音(あるいは母なる聖性)かどれかの役割を選べって迫られてもまったく実感にそぐわないったらない。まったく困った青春時代でした。

さて、諸外国の事情などを見ましても、その後の自分の人生から考えましても、ほんとうはヘテロの世界も「捨てるものなし」の筈なのですが、縛りが多い分、それに気づくまでが大変なのではないかと観察しています。
まずはそれぞれの人がそれまで縛られてきた性愛観や恋愛観や人間観を超えて自由に率直にインディペンデントな魂をもって生きる工夫と努力をしなければならないわけで、その旅路は実にたーいへんなものがあります。

ですから、ゲイの書き手の方々が(たとえ現実の世界では「拾ってほしい」タイプの人の美意識と自分の美意識と持ち味に合わせて周到に外見や行動パターンを磨いてゆくであろうことにはゲイもヘテロもかわりはないにしても)率直に「捨てるものなし」の世界を語ってくださるのは非常に有り難いことだと思わずにはいられません。そこに込められたなにかがゲイの人に特有ななにかではなくて、人類共通の何かである、ということが、別のジェンダーやセクシュアリティをもっている人の立場から語られなければならない、語る責任がある、と私は思っています。日本ではそのあたりの消息があまりにも語られなさすぎです。


宏輔さんのThe Wasteless Land.のシリーズの題名は
日本語訳すれば「捨てるものなしの国」
ということになります。
もちろん日本語の戦後詩の出発点である荒地派の面々が戦乱の後の日本語詩の模倣すべき規範として掲げたT.S.エリオットの『荒地(The Waste Land)』へのアイロニーでもあるでしょう。


しかし、戦乱の後の荒廃の時代を民俗学的なイマジネーションを織り交ぜて歌った『荒地』とは『捨てるものなしの国』の世界は大いに異なっております。
『荒地』同様にやはり饒舌体ではありますが、饒舌の中にあふれるのは荒廃の心地ではないように感じられるのです。
宏輔さんは京都生まれの京都育ち、現在も京都にお住まいと仄聞しております。
太平洋戦争で空襲に遭わなかった京都では「さきの戦争」といえば応仁の乱をさすのだ、ときいたこともあります。
いくらグローバリゼーションの大衆消費社会の世の中とはいえ、そのグローバリゼーションすら一目置く千年の古都、容易に捨てられぬ歴史が層をなして降り積もりいまも日常としてそこにある都市に住まう人にとってはむしろ「世の中に捨てるものなどなし」の実感は東京の人間には想像もできないくらい強いでしょう。
とはいえ、具体的な土地の名や有職故実を外して京都の「世の中に捨てるものなどなし」を作品化して語ることは実は意外に難しく、また技術も見識も要るのではないかとも思います。
その点で、宏輔さんがこれまで手がけてきた先鋭な美意識で選択された東西の古典の引用からなる抱腹絶倒のコラージュによる批評詩は

詩における「世の中に捨てるものなどなし」の実践

ということもできます。
引用された部分は引用句として有名な語句ばかりではありません。たった一文字だったり、別にその特定の作品ではなくてもいいような語句だったりすることもしばしばですが、そこにしかるべき出典が麗々しくつくと思わず笑えてしまいます。
しかし、今度は日常詩です。
非常に平明なことばで日常のなかに浮かぶよしなしごとが
そこはかとなく書き付けられております。
これを詩法の後退、と懸念するお方もおられたと仄聞します。

しかしです。やはり現代日本のゲイ・ポエトリーの歴史というものを考えてみると
この詩集の確信犯的な革新性が明らかになるのではないでしょうか。

現代日本のゲイ・ポエトリーには、(少数の例外を除いて)男性主導型異性愛に立脚してエロスの表現の型を作ってきた日本のヘテロの男の詩人の書きぶりに対する猛烈な反撥に支えられた(ヘテロ男性の詩人どもなどとても追いつかないような)「詩語にまみれ」て頭脳美肉体美超男性的もののふ的官能美づくしの人工美の極致の世界を目指す傾向があったであろう

と観察しております。

宏輔さんの今回の詩集は、そのようなおもっくるしいゲイ・ポエトリーのことさらに詩人ぶった身振りを笑い飛ばして余りある日常感覚とユーモアに貫かれています。
京都に住む書き手が人工美の極致をめざして有職故実や衆道の意匠をエキゾティックにまとってみせればそれまでの日本の現代ゲイ・ポエトリーの「王道」を行くことになったでしょう。しかし、宏輔さんはその道よりも、現代の日本のアクティヴなオープン・ゲイの人が接している「捨てるものなし」の境地を率直に語ることを選んでいます。
ミクシのトップページのポートレイト写真で拝見する限りでは、宏輔さんはたくましい坊主頭の偉丈夫な兄貴でおいでのようです。ゲイの世界では「熊系」と言うのでしょうか。その雄々しくありたい兄貴のときに傷つきやすく心優しき恋情と日常の哀歓とそのはざまから立ち昇るなにものかが平明な表現で書かれております。
テレヴィジョンの画面をきょうも賑々しく騒がせるその辺のおばはん以上にあけすけで口さがない中年のおばはんじみたおねえMANSや、心身のボディビルに励んで人造フリークスじみた文体や肉体を作り上げて、疲れたヘテロのおじさんおにいさんを足下に見下ろして睥睨するミシマくんやナカイくんやその超マッチョで愉快な仲間達のような御仁のみが「ゲイ」ではございません。
ましてや今様のBLの世界など、似て非なるもの。
そのこともよく気づかせてくれる詩集です。

もっとも
日本語で女が語るならば型にはまったお台所か性愛さもなくば家庭の女の役割をときに刺激的に共感的にうたいあげよ
(なぜなら女は娼婦か聖女か母か姉妹か娘だから)

と明に暗に要請される抑圧に対して日々密やかな抵抗を試みるヘテロの女の書き手の立場からすれば
この詩集であまりにもまっすぐに語られる日常がまぶしくてしかたがなくて
くっそーちくしょー
ゲイはいいよなー
正直に自分の生活を語っても
ありふれていない世界を語った作品になるんだもんなー
と思ったりもするのですが

本来詩人である人は何をどのような形で語っても詩になるから
別に日常を率直に語ってもいいじゃないか

とも感じさせられます。

日常にも捨てるところなどないのであります。

巻頭の「詩人キラー」の詩からつかみはばっちりです。
詩歌などをやっておりまして多少名前が知られるようになりますと
いろいろな実作者から同人誌や詩集歌集が贈られてくるようになります。
あまり相性のよくない詩が届くことも珍しくはありません。
宏輔さんはそれを招かれざる詩人の訪問にたとえて
気にくわない気持ち悪い詩人をまるごと退治できる
「詩人キラー」の広告を妄想するのであります。
誰もが一度は考えるけれども口には出して言わない真実をつく
これも詩人の仕事でしょう。
このような率直さが彼の作品の美質の一つであると思います。
「詩人キラー」の詩はミクシ日記の初出のときからそりゃもう抱腹絶倒でしたが、
活字になるとやはり感慨深いものがあります。

しかし、行間から立ちあがる過去の思い人の切ない面影など、セクシュアリティを超えてしみじみとさせるなにものかもたしかにここには盛られております。
「捨てるものなしの国」も人の子の国、拾ってほしい人に拾われず、拾いたいものがころがってはおらず、需要と供給が必ずしも一致するわけではなく、しかも通じ合えない、理解し合えない人間の悲しみも確かに存在しておるのです。怒濤のように存在があふれだす後半の長大な断片集(?)「熊のフリー・ハグ」はそう考えて読むと、詩と人間に対するあふれてやまない愛情がもしかすると受け手には必ずしも嬉しくないかも知れないむくつけきおっさんのフリー・ハグのように映るかも知れない、との含意が充ち満ちているようにも感じられて哀切です。世紀病の影の暗示はまったく感じられませんが、それはむしろ人間に対する愛情あふれる登場人物とセイファー・セックスのつながりを想起させるなにかでもあります。

わたくしごとき才女気取りの女の書き手に賢しげに分析されるのは
おそらく宏輔さんにとってはさぶいぼが立つほどお厭であろうと常々拝察しております。
ですから、あれこれぶった切るようなことはいたしません。

ともかく

頭の回転の速いこどもが砂場の砂をありったけ使いながらどんどん面白い話を繰り広げてゆくようなそのおかしさや切なさを存分に味わえる

それは保証いたします。

身近にそれなりにアクティブなオープン・ゲイの知り合いがいる大都市圏の日本語話者の読者にとっては

エリオット方面よりもむしろ

「捨てるものなしの国」

といえばぴんと来るかも知れないな、と思います。

謎で謎でしかたがないけれどやはり近くにいるからにはちゃんと立場を尊重して接したいと日頃読者の皆様がお感じの、身近のゲイ友につながる世界を知るためにも、「捨てるものなし」の境地を存分に味わっていただくためにも、個人的には引用詩批評詩満載の

The Wasteless Land I+II+III

とセットで読むことをおすすめします。

しかるべき訳者を得てニューヨークあたりで読まれると受けるのではないかという気もしますが如何でしょうか。

アマゾンへのリンクはこちら。

The wasteless land

The Wasteless Land. 2

The Wasteless Land. 3

まだThe Wasteless Land.最新刊へのリンクは来ていないようです。

『荒地』の英語版はこちら。
The Waste Land: Authoritative Text, Contexts, Criticism (Norton Critical Editions)
The Waste Land and Other Poems (Penguin Classics)

ワッキー先生訳の『荒地』はこちら。
西脇順三郎コレクション〈第3巻〉翻訳詩集―ヂオイス詩集 荒地/四つの四重奏曲(エリオット)・詩集(マラルメ)

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02/06/2009

やまじえびね『青痣』と姫野カオルコ『ツ、イ、ラ、ク』『桃』

友人・やまじえびねさんの新作『青痣(しみ)』が扶桑社から出版されたので読んでみた。

特にモテるわけでも派手でもなく、いわゆる文学少女の類に属する少女の、教師と道ならぬ関係になった同級生への嫉みや憧れ、家庭教師のさわやか系男子大学生(でもテーブルマナーは悪い)への憧れや幻滅、まわりの男子のおさなさへの幻滅、などを清潔な絵と簡潔すぎるほどに簡潔なネームで描く。少年少女みな清らかならず、の世界を冷え冷えとするほどクリーンな作品世界に盛っている。少年少女の潔癖さおさなさとないまぜの感情が、お下品で幼稚な男子や、教師と道ならぬ関係になった同級生を糾弾する「男の子の前では眼鏡をはずす眼鏡少女」系のクラスメイトたちといった脇役までも的確な描写で描かれている。知的な清潔感のある大人の男たちであるところの主人公の叔父さんや理科の教師、ぼっちゃん然とした家庭教師の先生の造型にも説得力があって好感が持てる。

原作は姫野カオルコ「青痣」(角川文庫版の『桃―もうひとつのツ、イ、ラ、ク』に入っている)。小説のまんが化なので、結末までも原作に忠実である。誰でも特別な存在だと気づかずに特別な存在になりたがっていた、でもいまは普通の大人として暮らしている。いつもならお話の続きを読者の想像に任せるえびねまんがには珍しく、「あれほど悩んでもいまは普通に暮らしてコロッケを買いに行く大人になりました」というオチがついている。原作がそうなのだからそうなるのである。

最近姫野さんの作品とはご無沙汰していたので、良い機会なので原作も読んでみた。『桃』は直木賞候補にもなった『ツ、イ、ラ、ク 』のスピンオフ短編集なので両方とも読んだ。達意の作品ではあっても、ともかく後味が悪い。多くの人が葬り去って振り返らないことにした、そうしなければおめおめと生きていけるはずのない無軌道な「若さ」が、精神的な高みへの上昇を放棄した文化砂漠の日本の片田舎を背景にこれでもかこれでもかと噴出する。田舎の生活に退屈した文化的不良少女と道ならぬ関係をもつミッション系名門大学出身の若き国語教師はお給金を貰って自活することを至上命題とする男で、倫理性も使命感もなにももっていない。容易に生徒とやってやってやりまくる仲になる。彼はなにも悪びれもしない。
しかもやはり庶民な彼らをとりまく庶民階層の中学生男女や愚かな大人たちのじっとり湿った常識人の日常と隠微な祝祭としての性への屈折した感情、それは日本という巨大な片田舎の表皮一枚剥げばどの地方にも見いだすことができるだろう。

そういうどろどろした湿気を離れてよりさわやかですがすがしいたましいの世界に行くために芸術も学問ももしかして信仰もあるのではなかったか、とプラトン大ファンクラブの者としてはため息をつきたくなるが、そういうことはこの国では大声では言ってはならないことのようだね、とさらに重たいため息をつきたくなる。そんな読後感である。
大人になった二〇年後の登場人物たちは表向きは社会に順応したりっぱな大人としてファム・ファタルの美術教師の葬儀に現れ、かつての道ならぬ恋の主人公二人はコンピュータ産業で世界的に大成功中の某企業の上司と部下として再会する。精神性を欠いた「常識人」の生のエネルギーあふれる愚かさは大人になっても変わらない。洗っていない生肉を手づかみで差し出すようにどかっと差し出される。

恋愛至上主義の当世にあってあえて大義に生きる女を描いていた初期姫野作品の苦いユーモアのキレ、硝子の天井をあえて打ち破るなんて思いも寄らずに男性の経済的社会的精神的庇護のもとに生きるプチブル良妻賢母を育てるカトリック女子校の価値観に順応してきた自分が狡猾であることにすら気づいていない小金持ち妻を都立高校・ばんから名門私大出身の担当編集者の人生を食い物にするエイリアンじみた存在として描く『ああ正妻』に噴出する「なんでこのばかなおんなが!」の冷たい怒り(それを制御しきれないがゆえにこの小説はおはなしとしては破綻しているのだが)、そういう皮肉な視線をあえて隠蔽しているがゆえに『桃』と『ツ、イ、ラ、ク』の読後感はさらにやりきれないものになる。

姫野作品の背景は彼女と同郷の歌人・塚本邦雄の作歌の背景とも通ずるものがおそらくあると私はにらんでいる。塚本邦雄が生涯を通じて「ここから遠くへ、象徴界へ逃れ去りたい」と歌い続けたその背景には、文化の荒野となった巨大な鄙の重苦しさがあった。塚本にとっての「近江の桎梏」は私の想像の範囲を超えていると感じられることがしばしばあるが、塚本の時代とは異なれ、少し近い過去の近江をモデルにしたと思われる地域を舞台にした『ツ、イ、ラ、ク』や『桃』に描かれる「関西のいなか」は現代の文化砂漠のいやったらしい重苦しさをなまなましい生の記憶のように追体験させてくれる。

(ちなみに姫野さんの近作『コルセット』は有閑階級のただれた性を描く短編集だが、やはり『ツ、イ、ラ、ク』や『桃』のじっとりしけった庶民の哀歓を描く筆致に比べるとなにかの遠慮が働いているように見える。七〇年代の塚本邦雄が量産した有閑階級の頽廃を暴く短編とはやはり比べては気の毒なのかもしれない。塚本のこの種の短編には、アパレル関係のやり手のビジネスマンとしての生活のなかで垣間見てきたであろうそこはかとない上流階級の奢侈を何倍にも何十倍にも想像力をもってふくらまかせたであろう頽廃の描写のなかに服飾や有職故実の機微がこれでもかこれでもかとちりばめられていて、まとめて読むと食傷するとはいっても水も漏らさぬ完成度がある。)

ネットでリアルタイムで「若さ」を体験中の諸君の感想など拾ってみると、『ツ、イ、ラ、ク』を読むと恋愛運がUPする!などと書いておられる方もあるようで驚いてしまう。あの無軌道なエネルギーにおされてよし僕も私も恋愛がんばろう、と思うのかもしれないが、それは幸福な誤読というものであろう。

原作の「青痣」は、家庭教師の大学生にあこがれた主人公が中学生時代を振り返って綴る断章からなっている。
三十代になった彼女の芯の部分は少女の頃となにもかわってはいない。家庭教師への思いを綴る場面は、潔癖さとないまぜになって妙になまなましく、一瞬ティーチャーファッカーの文化的不良少女の告白にも見えてどきっとしてしまう。えびねまんがでは中学生の視点から語るナラティヴを徹底して用いていて、そのあたりのどろどろした湿気がすっきりとんでいて読みやすくなっている。
原作はアメリカやフランスの短編小説にもしばしば見られる散文詩との境界が不分明なshort storyの文体なのだが、明らかにお話のオチがあるタイプのshort storyであって散文詩ではない。イラストレイテッド・ポエトリーを得意とするえびねまんがのベースには一見乗りそうに見えて実はそうでもなさそうだ。
生徒と出来てしまった国語教師の図像化はやはり難問だったのではないかと推察する。スーツを着て澄ましていても「なんかいやな顔」なのだが、大人になってから見ると「薄情けで好色そう」に見えたりする。困難な状況にあっても人生を誠実に生きようとするがゆえに人生に迷う人々を淡々とした筆致で描いてきたえびねまんがにはいままであまり出てこなかったタイプである。「なんかやな顔」の国語教師の造型は、明晰な像を結ぶ主人公の叔父さんや理科の先生や(テーブルマナーのよろしくない)大学生の家庭教師のお兄ちゃんとは対照的に、一見清潔感のあるスーツに覆われた隠微な不誠実さが霧のように漠然と立ち現れる造型になっている。
いや、あのどろどろした世界からよく思春期の潔癖さをすくいあげてタイトにまとめたものだ。あっぱれ。

えびねまんが版『青痣』併録作品はいつものえびねまんがの筆致が冴えていて、NYCかロンドンあたりが舞台と思われる画学生の友情(これはもしかするとTOKYOの画学生の生活なのかもしれない)をスナップショットで切り取ってさわやか。絶妙の解毒剤(!?)になっている。おすすめする。


追記-『ツ、イ、ラ、ク』の後味の悪さは、深い考えなしに生徒と道ならぬ関係になってしまう若い男先生が実は名門ミッション校出身という設定にもあったりする。恋は落ちてしまうものだ、とはいっても、美女のすねにほれぼれして水に落ちてしまう久米の仙人が哀れで笑いを誘うのは彼が人里離れたところで修業に励んだ仙人だからであって、この男先生は欲望とかそういう問題を律する精神性すらもたない人である、耶蘇学校を出ても「美学」を勉強してもそういう高邁な精神性がついに育たなかった人である、という設定が実にむごたらしくてしかもいかにもいまどきの欲望至上の原理で動く現代人風で後味が悪い。こいつが宗教系学校の出でなくっても後味が悪いが、宗教系学校の出、という設定になっているのがことさらに後味が悪い。
ほーら人間てこんなに愚かなんだよ、見ろ見ろ見ろ。理性だの信仰だの高邁な理想だの知識だの、さみしさを埋めてくれるたのしいことや肉欲の前にはなんの役にも立たない。見ろ見ろ見ろ。

それが日本人の好きな猥雑な現実、ってものかもしれないが、読んでいてやりきれなくなる。

確かに大学にはいろいろな人がいる。教員の側がどれだけ良心的に研究の成果を教育を通して伝えようとしても学生の受け止め方はさまざまだろうし、宗教知識の獲得の場では要領よく勉強して切り抜けても、その人がその人自身の人生とその知識を結びつけないでやりすごす若者だってそれなりにいるはずで、なんとも難しい。

ただ、こういうちゃらちゃらタイプの耶蘇学校出の人物が、耶蘇学校出身の著者によって書かれた、多くの人が読むであろうお話の登場人物として出てくると、ある種の耶蘇ぎらいの日本人の溜飲はかなり絶妙な感じで下がるだろうなと思うのである。
(いまの日本には教育や医療や、高い倫理性を要求される現場で難しい状況のなかで必死に働いている善意の人たちの存在をカッコにいれて、道を踏み外した悪の華だけ見てその業界の人たちをたたきのめしては溜飲を下げる「空気」が感じられる。宗教が絡めばなおさらやっかいなことになる。そういうつくりの物語も増えてはいませんか?)
これは私の思い過ごしだろうか。

他に読まなければならないものが山ほどある現場の先生方にとっては優先順位を積極的に先にして読みたいタイプの小説ではないとは思うが、こういう小説が書かれるという事実自体を知ることじたいが重要なので、知っておいてもいい本ではある、かもしれない。ただし、途中でこれでもかこれでもかと繰り出される人間の愚かさにウッと嘔吐感を覚えて放り出したくなるかもしれないけれど。


ところで初期姫野カオルコ作品の「大義に生きる女」たちの世間様とのずれを笑う機微は、実は耶蘇的ピューリタン的理想と「猥雑で雑食的」であることをよしとする日本的現実のずれを笑う皮肉な視線にも由来する。決して登場人物に対してものすごく意地悪な態度で書いているわけでもないので、読むタイミングが良ければ大義に生きる人の滑稽さがおかしみを誘う。しかし、読むタイミングが悪いとなんだか後味も悪い。状況の渦中に呑まれて自分のしていることが何であるかを知り得ない人たちの物語だからであろうか(『ツ、イ、ラ、ク』の、国語教師と寝てしまう生徒は長じて「状況に呑み込まれてわけがわからなくなるのはもういやだ」と述懐するのだが…)。なにぶんにもお話の世界のことであるから、その辺の機微を表面きって批判するのは野暮かもしれないのだが。


デイヴィッド・ロッジイーヴリン・ウォーの宗教ユーモア小説は私も好きでよく読むのだが、彼らのブラックユーモアは不思議と後味が悪くはない。決して善人ばかりが登場するわけではないし、狡い人も悪人も出てくる。与えられた価値観を信じ切れなくてよろよろしながらそれでも誠実に生きようとしてそれゆえに挫折する人間も山ほど出てくるのだが、登場人物が自分のしていることが何かを悟って行動しているように感じられるところにまだ読んでいて「救い」がある。状況に振り回されていそうで実はそのなかでも自分がなんであるか、自分のしなければならないことを何であるかを見いだそうとしている人々の姿、そこにほっとさせられる、とでもいうのだろうか。

いやはや。原作のあの後味の悪さを思い出してなんともやるせない気分になってきたのでこのくらいにしておく。

でも、えびねまんがは良いのでみなさんおすすめします。


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21/05/2009

マエストロKZ

クリスツィアン・ツィメルマン(ツィマーマン)@武蔵野市民文化会館、5月14日

マエストロのほぼ連日演奏会・日本縦断ツアーの中の一日である。
ライヴを前回聴きに行ったのは97年(芸劇)だから、およそ12年ぶりにライヴを聴くことになる。
あのときのシューベルトはほんとうに素晴らしかったので大いに期待して行ったのだが…。

シマノフスキはほんとうに素晴らしかった。お国ものがいま彼のいちばん弾きたい(しかも政治的メッセージを心から共感して込められる)絶好のレパートリーなのだろう。壮大にして繊細無比な、非の打ち所のない有機的な説得力あふれる演奏。それでこそマエストロだ。なにも言うことはない。

前半のバッハ(パルティータ第二番)とベートーヴェン(ソナタ第32番)も後半のブラームスも完璧主義のお見本のような演奏だったけれど、退屈しなかったか、というといえいえそうではなかったりする。私の驕った耳がいけないのかもしれないのだが、ベートーヴェンの演奏を聴きながらも、こないだ聴いたピアノキングの悠然たること山のごとき宇宙的な演奏や、ピアノエンプレスみつこ殿下の天衣無縫で自在な喜びにあふれたハンマークラヴィーアの演奏とつい引き比べてしまう。お墨付きを信仰する聴衆にとってはそれでもマエストロの演奏は最良の演奏に聞こえるのかもしれない。

確かにプログラム冊子に載っている難解な表現でことさらに言挙げした談話に覆い隠されたユーモアがベートーヴェンの第二楽章やブラームスの演奏からはうかがい知ることもできた。しかし、あれほどすばらしいシマノフスキを聴いてしまうと、他の曲はどうして退屈なんだ、と思ってしまうのだった。それともあの退屈さは荒稼ぎの果ての芸の荒れのようなものだろうか。この人こんなだっけ。少しがっかり。

やはりマエストロはいま一番お国ものに心を傾けたくていらっしゃるのではなかろうか(いくら手の内に入った名曲とはいえ、ドイツもの(!)の演奏とお国ものの演奏に熱意の差は感じられた。歴史のことまで読み込む聴き方は邪道だろうか)。「日本のお客さんは名曲がないと安心しません」なんてことおっしゃらずに、マネジメント側もオールお国ものプログラムでツアー組んでさしあげればよろしいのに。

プログラム冊子には「パイプオルガンにもなみなみならぬ関心を示している」と書いてあった。
オールお国ものプログラム
パイプオルガンリサイタル
マネジメントの大英断でこのセットが武蔵野市民文化会館や所沢ミューズでも実現されるなら聴きに行くかもしれない。

それでも一万うん千円出してサントリーホールでマエストロのドイツもの名曲プログラムを聞きたいか、というとちょっと微妙なのだった。

Lire la suite "マエストロKZ"

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11/05/2009

最近いただいた詩集/歌集(2)

笹原玉子『この焼跡の、ユメの、県』ミッドナイトプレス、2008年

塚本邦雄創設による歌誌『玲瓏』は、日本の短詩型文学結社誌には珍しく、短歌以外の領域の実作も手がけるうたよみにきわめて寛容である。この詩集の著者である笹原さんも、師の影を突き放しつつも「負数の王」以前の師の若き日に寄り添った秀作評伝『塚本邦雄の青春』(ウェッジ文庫)を上梓した作家・楠見朋彦氏も、その旺盛な活動をこの場所に支えられているとお見受けする。そしてわたくしのような者もやはり『玲瓏』という場あってこそ短歌を発表できるのであった。

塚本邦雄の遺したことばの磁力はいまなお『玲瓏』に強い影響を与えている。
俗とモードに惹かれるからこそ(男色趣味も含めた)反俗趣味を貫く姿勢、戦争からの解放ゆえにもたらされた自由の空気を享受しつつも、文語までも過去の遺産として捨てて顧みなくなった時代にあえて文語の富を奪還しようと試みる正字正仮名主義。アララギ的リアリズムの彼方を目指すマジック・リアリズム的幻視趣味。そのような立場に立って有能なアパレル商社マンでもあった独学の人・塚本邦雄が到達し得た言語芸術の孤独な高みとその深閑とスタティックな作品世界に惹かれ、いまも塚本的美意識の模倣を続ける詠み手も少なくない。しかし、模倣だけでは新しい世界は啓かれない。塚本詩学の限界と可能性とその「前衛」の時代性を改めて問う時期に我々は来ているように感じられる(そのような問題意識でいちはやく書かれた楠見氏の『塚本邦雄の青春』はやはり貴重な書物である)。

とはいえ、模倣と、亡き師の思索の追体験はどのようにして区別されるべきなのだろうか。いまは亡い先人のことばを丹念にたどることによってはじめてその先人を理解できると同時に、書き手自身が自らの資質を悟ることもある。既視感を与える文体に接すると本を放り投げてしまうせっかちな読者や批評家も少なくないであろうこのせわしない時代だからこそ、その区別は念入りに識別されなければならないのではないだろうか。


先人の思索の言葉を作品世界にちりばめる、という営為は、その先人のことばに確かな力があって、そして引用する作者の側に的確な理解と切実な共震があるときにこそ作品世界に説得力を与える。その点で、笹原さんの作品世界に引用された塚本語彙・塚本文体はきわめて説得的だ。亡き師の思索の影をたどるようにきらびやかな塚本語彙をちりばめたふくよかな擬古的な文体のなかに、この頽廃に崩れゆく世界のなかにすっくと立って誇りと友愛とを語る反俗の白襟のエロティシズムがたちのぼる。レオノール・フィニの描く世界の終末の海に立つ少女の虚無のまなざしよりももっともっと強いことば。未来をひらきながら20世紀末の負数の王を追悼する詩集でもある。


佐藤勇介氏からモールスキンノート風詩集を頂戴しました(『She her her』思潮社)。


さりげないたたずまいのことばが黄色のバンドとペパーミントグリーンの表紙のモールスキンノート風の装幀でくるまれている。詩は第1詩集と第2詩集より着実にうまくなったと思う。やわやわと優しく純情なにっぽんの男の子の日常と愛情。『未来』の「彗星集」界隈や『かばん』界隈の男性歌人たちの作品にも通じる作風である(彼は短歌も勉強したら芸風が広がるのではないかと思う)。この装幀が彼の作品に独特の存在感を与えている。あらかじめ詩句が帳面に印刷されていると感じられてならないのである。手書き風フォントを使えばもっと臨場感が出るのに。

佐藤さん、この本はノートとして使ってはいけないのですよね?
ノートとして使ったら怒る?
ちなみに値段はモールスキン(中)とモールスキン(小)のあいだくらい。

詩書出版社の経済的苦境を救うのは贈り物に使える詩のグッズだと思うのである。
佐藤勇介氏の第3詩集はそこに気づかせてくれる。
結婚祝いの定番アンソロジー・たにしゅん編『祝婚歌』を作った書肆山田はやはり慧眼である。ミッドナイトプレスの詩人Tシャツはどうなったのだろう。製本工房の美篶堂はたにしゅんノートを作ったともきく。

ぜひ各社お抱えの詩人の作品による「詩人日めくりカレンダー」(印刷大変だったら週めくりカレンダーでも良い)と「詩人のおことばノート」の商品化を各社に期待したい。
ワッキー日めくり(またはワッキー手帖)とゴーゾーカレンダー、あったら私もほしい。

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